昭和50年 2月5日 朝の御理解   入力者【明渡徳子】
②・③・⑥

御理解第89節「此方の道は傘一本で開くことができる」


今朝、この御理解をここで頂いて、まあ日々の事ながら恐れ入ってしまっておることです。と、言うのは今日私、ご神前で、昨日神愛会でしたから、先生方に色々お話を、まあさせて頂いて、昨日は鹿児島から安武先生が見えられ、それから宮野からも、安武先生が見えたんです。お話にたまたま、初代の安武先生のお話に、まあならせて頂いて、それこそ一世を風靡するほどしのごひれいを、まあ頂かれた。

「その元というのがどこにあったのか」と、言うような、まあお話をさせて頂いたことですけども。今朝のご祈念にも、その事のまだ未解決になっておったお話のことやらを思わせて頂いて、②●ほんとにせっかくご信心を頂くなら、私どももあのような一つお徳にも触れたい。一つあのようなおかげを受けたい。そう思いますよね。そしたらあの、あたくしの目の前にね、傘が一本立ちしておるところを頂いたんですよ。

そしたら今日は、この「此の方の道は傘一本で開くことが出来る」というこのー、御理解と一致しますのでね。ほんとに日々の事ながら、なるほど神様が、神様の心をあたくしを通して伝えさせて下さるんだなあと言う、これがあたくしの今朝の実感です●②、ね。例えば安武先生のご信心と言うのは、まったく傘一本で開かれた道なんですね。

昨日もその話が出たんですけれども、んー、たまたまあのー25日の日の御理解の-、施しの徳を持って恵まれるという御理解でしたかね、25日。あの朝の御理解を聞いて頂いてから、その内容をいよいよ話させて頂いたんですけれども、んー、ちょうどこうたきさんところの宅祭りの明くる日のことです。

これはあたくしが何軒も、おー、知っておる。特に、例えば、あー、お広間が新築されるとか、新たな建立がなされる時に、先生が建てたお広前と、神様が建てなさったお広前があるという事ですね。先生がどうでもその願いに、もちろん願いに願いをかけてね、自分の一生一代の内に、そんな、それこそヒノキの香のプンプンするようなご神前を作って、そこに神様を奉斎し、ね、お広前もこう、こうこう、まあおかげを頂いきたいという願いを立てられて、願って願って建てられた、言うならばお広前とね、もう神様が、これはだから、えー、先生が教会長が建てたと同じことです。願って建てたんです。

けれどもその願わんでも神様がね、そういう働きになって来て、神様が先に立ってお広前を建立さす。これはあたくし(日田野?)の教会に、んー、まだあの信者時代にお話に行っておりました時分でしたが、あちらの荒巻先生が、んー、「大坪さん、あたしはお広前をこげな風に自分で設計してこげな風に、えー、建てさしてもらう夢を持っておる」と言うて、あたしに設計書を見せられました。

それを玉串あんの上に上げて、それからご祈念をさせて頂きましたら、んー、人が建てたお宮には神は入らんと言うお言葉を頂いた。人が建てたお宮には入らんと。もう神が入る社は神が建てると言う。だから、それを頂いてです。「荒巻先生やっぱこういうふうな在り方にならにゃいけませんよね」と言うて、「ほんなこつの」と言うて、その時分はまあ私の信心に大変帰依しおられる時分ですから、そんな話がでけたわけですけどね。

その、例えば、いかにもそれは美しいごとのようですね。例えば教会長として、立派な広いお広前を建立したい。自分が一生一代の内にどうでも建立したいと言ったような、その願うから神様が、まあおかげを下さるのですけれどもね。例えば神様の方が先に立って、お広前が出来る。合楽の場合なんかはそうです。言うならば神ながらな建立です。

甘木の場合なんかはそうです。私が知っておる大きな教会がね、建ちました。そこの総代さんは、大変な財産家でもありまして、大きな事業をなさっておられたから、もうそれこそ建てられた責任上、自分の言うなら家、蔵財産を打ち込んでそのお広前建立に当たられました。

建ちあがったのとその方のお店が倒れたのが一緒でした。それっきり信心を止められました。そういうことがあってはならないですよね、実際。だから、最近ここで言われる⑥●天地への還元と言うのはどういうことかと言うと、神様の働きが始まっておるなと気付かせて頂いたら、その神様の手にもならせて下さい、足にもならせて下さいという生き方が、天地へ対する還元です。いいですか?

神様はならその材木買い、例えば金銭だけのことじゃありませんけれども、材木買いに行ったり、えー、(   ?  )取りに行ったり、そげな事は出来ません。けれども、神様のお働きが始まっておるな、という事が分からして頂いたら、その神様の手に足にならせて頂くということが還元です。●⑥

そうすると今度は、それとは反対にですね。言うならば先生が建てようと思うた、思うて自分で設計してこげなふうに建てるというふうな、例えば生き方になる事は、どういう事かと言うとね。神様、先生が芯であって、神様を手足のように使うたという事です。だからおかげを落とすんだなあという事です。

そういう建て方をしたところ、教会長が亡くなられたんですね。誰々さんが亡くなられた。そういう例はいくらもあるです。つい最近も、ね。ある意味でのやはり犠牲を求めなさるわけですね。けれどもあたくしは、なら甘木の場合なんかは、(ひやの?)さんを始め、あの時分の総代さん方が、あのご普請の時には、もうそれこそ全身全霊を打ち込んでのご造営であったという事でございますけれども、それこそ皆が火の出のような勢いでおかげを受けられたという事実があるでしょう。

それは言うならば神様が思い立ちなさった。その神様の思い立ちに、どうぞあたくしを使うて下さい、手にも足にもならせて下さいと言う、言うならば素晴らしい還元。天地に対する還元がでけたからなんです。言うならその中心であるところの安武先生は、「こげんとば建てんならん」てんなんてん思いはさらさらない。神様が建てて下さるなら頂こうと。

だから問題があったら止めときなさいという生き方なんです。先生の言うなら我情やら我欲が全然入ってない。そして神様を信じて疑わない、ね。今日あたくしは、その安武先生のことを、ご祈念中に思わせて頂いて、傘一本がこう、あの一本立ちしておるところを頂いて、ははあ、安武先生こそ言うならば傘一本で、あのような素晴らしい道を開かれたんだなと。

傘一本と言うことは、神様を信じて疑わないと言う事。神様を信じておるところから生まれてくる喜びと言う事。神様を信じて安心がでけておると言う事、ね。お互いがどういう、もう今にも降りそうだと言う時に、傘が無かったら、不安で不安でたまりません。途中で濡れんなんならんかも知れん。ところが、一本の傘を持っておるとです、いつどこで言うならにわか雨に遭っても、濡れんで済むと言う安心があります。

傘という事は、ここでは安心という事です、ね。だからそういう安心の心という事を、もう少し手前の方で言うと、信心の喜びです。または、神様を信じて疑わないと言う確信ですね。それが言うならいつも心が安らいでおれれる、神様の働きを信じきっておるところに生まれてくるのが安心です。

ね、その安心が、当時の甘木のごひれいに繋がったという事です。安武先生のそういうご信心がね、これは言うなら教会とか教師だけのことじゃありません、ね。皆さんがここで言うなら、ご普請でもなさる時には、必ず時期を伺われたり、またはお許しを頂いてからなされますね。だから神ながらなおかげを頂くんですね。

最近建っただけでもそうですね。羽田野さんのところ、久保山さんのところ、または近くのこうたきさんところのところ。または大和さんのところ、ね。また古賀、久留米の古賀しんじさんところ。または、最近出来ましたあの、にちや呉服店のこと。または佐田さんところのお神様の部屋が出来たと。

③●もうご神意を頂いて、神ながらなおかげ、お繰り合わせを頂くと言う事です。自分が建てようと言うて、自分の我力で建てるのではなくて、だからもうどこ、事を言うてもです。もうほんとに神様が先に立ってござる印だな、と言う印が見えてくる。そういう中に、ならご普請ならご普請一つでも、出来て行くというようなおかげ、一切がそれでなきゃいけないです。

ただ神様にがむしゃらにお願いをして出来たのはね、どうしても不浄が付きます。言うならどういうことかと言うと、神様が芯じゃない。神様を手足のように使うたからですよ。それはどこでか差し引かれるですね。反対に神様が芯になって下さって、あたくしどもを手足に使うて下さいという生き方こそが、これはもう絶対のおかげであると同時に、それが天地への還元だという事なんです。

だからほんとにね、がむしゃらにお願いをして、おかげを頂くと言うおかげの中に、そのー、何と言うかな、ほんとにあたしはお詫びやらお礼やらがほんとに手厚うでけんならば、やり損なうと思うですね。おかげと言うからおかげを求めた、求める信心で終わる。結局自分の心の中に一本の傘を頂いて、信心の喜びを頂いてね。

神様を信じて疑わない心を頂いて、そこから生まれてくる言うならば傘一本。言うならば心の中に安心のおかげを頂いて、事が成され、事が運ばれて行くというおかげを頂かなければならん。●③昨夜、えー、風呂に入っておりましたら、ご祈念の後に。久留米から佐田さん達夫婦が、ちょっとお伺い事があって見えておると言うから、それからこちら、事務所へ参りましたら、待っとっておられた。

それでまあお話を色々聞かせて頂いて、まあそれに対する話を聞き、またそれに対するお答えをさして頂いて、もう帰りなさらんなんという時分に、ちょうど昨日は松栄会でしたから、松栄会の連中が、ちょうどお広前に出て来ました。ほいで、まあこっちちょっと入りなさいと言うて、事務所へ皆入ってまいりましてから色々、まあ結局、日頃は松栄会の方達にお話も、おー、ここで出来ませんから、あー、と言うわけでもないけれども、お話しをしだしたら、もうほんとにきりがないほどお話を、結局ちょうど12時頃まで、ちょうど12時です、までお話さして頂いた事ですけども。

あたくしはもちろん信司さんに言うたです。「あんたがこの頃十三日会の時だったか『あたくしは今年の信心を、言うならば合楽のリズムに乗って進めたい』と言ったような事を言ったけれども、一つもリズムに乗らないじゃないか。いくら言うたっちゃ、あんたはあたしが言うこと聞かんじゃないか」、ね。あれだけの事をおかげを受けていかなければならないのだからね。

結局色んな問題が起こりました。あたくしは信司さんにだけは非常に厳しく言うんです。あんたが大きくなる以外にはない、ね。あんたがお詫びする以外にはない。ですから時々、やはりそれに対してから、あー、その反発をされるくらいな時があるくらいです。もうあの人だけにはあたくしはやかましく言うからね。

それでもね、あんたのところではね、大変な犠牲を払うてあるだろうがと。お母さんやら叔母さんたちがね。そういう例えばほんとに人柱的な、あー、犠牲まで払わせて頂いての事だから、そこにほんとのものが建ちあがらなかったら、神様に対して相済まんからあたくしは、あなたにはちっとはやかましごと言うとよと。

それに寒中修行にあんたが何遍参って来たか。と、言うような事をあんたにだけは厳しい言うもんね。傍に深松さんがいましたけん、「深松さんどんにはあたしはこげんな風に言うた事は一遍でんなかろうが。信司さん、これは言うならばあんたんだけにあたしが、あのそれこそ目の敵のように、しゃんとせにゃあ、おかげ頂かにゃあ、もうあんたが大きくなる以外ないというふうな、あのー、厳しく言うけれどもね。

そこんところを一つ行として分かってもろうて、信心せにゃでけんばい」と言うお話をしましたら「実は先生、もうほんとにもう恥ずかしゅうけんでお届けしませんでしたけれどもね、ちょうど寒修行が終わった朝です。その朝はもう寒修行には参って来れなかった。きなくて夫婦で済んだ後に参って来た。けれども恥ずかしゅうして、お礼が申し上げられじゃった、お届けが出けなかった」と言うて昨日話すんですよ。

それはどう言うことかと言うとね、お広前にお引き寄せ頂いたところが、親先生が御結界に付いておられた。そしたら、その御結界に付いておられた先生がサーっとそのー、信司郎さんの前に立たれて、あらと思いよったら、こうおる、こうやって頭下げておる自分の耳の、両方の耳を引っ張ってから「さあ立ち上がれ」と言うてからその、言われた、もう僕はほんとにもう恥ずかしゅうしてから。

実は寒修行のほんとに親先生が言いよんなさるとが、こういう思いでありなさると思うたばってん、恥ずかしかけんお届けができなかったと言うお届けを、お届けには行きます。事務所でその話をするんですよ。だからあたしがほんとにあたしが思いをかけると言うとおかしいですけれども、この人には思いを掛けてこの人にはかけんと言う事はないです、ね。

けれどもね、もうここに言うなら事業通過でけてる、ね。もう後は打ち合い、ここに建てるばっかりというごつなってグズグズするから、もう今度はそこのところにもうこう草がボウボウ生えよるといったような人達の場合にはです。あたくしは言わなきゃおれないものがあるわけなんですね。

せっかく言うなら親達があれだけの基礎を作って、そして2人とも亡くなられた。それこそ路頭に迷わんばかりのような状態の中からです。おかげを受けて来ておるとだから、そういう言うなら基礎が出けてるこの上に信心が立ち上げられ、ほんとのおかげを受けられ、今度またなら志望心がでけたと言うても、あんたの実力でできるのじゃあない。

中身は空っぽ的な、言うなら形が出来ただけだから、その中身をあんたがこれからの信心によって積めて行かなきゃならんのに、たったこの位の事でグズグズ言うたり、この位の事で情けないの、心配だのと言うておったのでは出来んからね。それこそあんたが言うておるように、合楽の信心の一つのリズムに乗らせてもらう。

今合楽で何があっておるかという事すらわからんくらいな事でです。寒修行中に歩調が合わせられないくらいでです、おかげが頂けるとは思われんじゃないか、と言うような話を昨日した事でしたね。それを何を言うならあたくしが信司郎さんに、あたしが求めておるかと言うとです。信心の喜びをね、または神様を信じて疑わないね。もう親先生にお願いをしてのことであるからと、全ての事に安心を持って、その事に臨まれ、またはその事にタッチでけれるおかげを頂かなければならんからであります、ね。

ただ願いごとだけをお取り次ぎ頂いてね、お願いが例えば成就する事だけを願うと言うような信心からね、神様が先に立ってね、すべてのことが成就して行く兆しが見える、ね。ほんとにね、神様が働こうとなさる前には、必ず神様の働きのその雰囲気を感じるです、ね。ですからあたくしどもは、その後から付いて行く。言うならばその神様の、言うなら手に足にならせて頂こうと言うような生き方を、いよいよ身に付けて行くと言うことが、あたしは真の信心だと思うのです。

そしてそういう生き方ならばですね、必ず手になり足、神様の手になり足にならせて頂く事がですね。おかげにもなる、力にもなる、お徳にもなるという事であります。それを例えば人間的な考えだらけで、それを神様どうぞお願いしますというのは、反対に人間が芯であって、神様を手足のように使おうとするような事だから、おかげにはなっても、そこには大変無理がいってます。

無理がいってるからそこんところに、言わばね、差し引きと言うか、一つの犠牲を払わなければならないような結果が生まれてくるのです。これは大変な事だなとあたしは思いますね。ね、その次の90節に「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのは難しい。道を開くと言うても、匹夫の凡人から開くのじゃから、ものが難しゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ」。

だから、その神様の開かせて下さろうとする働きの起こるまではです。あたくしどもが焦っちゃならんという事です。その辛抱、その信心、それこそ身に徳を受ける修行とここにある、ね。辛抱して行く間には徳が受けられる。徳が受けられる、神様の働きが始まる。そこからですね、神様の芯に対するあたくしどもの手足としての働きがですね。

まあ甘木の例を取りますと、ああいう立派なね、お広前が建立され、その為にはもう大変な、あー、当時の総代幹部という方達は、まあ打ち込んだ上にも打ち込まれた。もう全身全霊を打ち込まれた。その全身全霊を打ち込んだ人達は、皆徳を受けたと言う事実。また○○教会の、立派の大きな教会ででけた。けれどもそれはどこまでも教会長が思い立たれた、言わばご造営であった。

総代としてやっぱじっとしておられん。特にその責任を感じて、それこそ自分の私財を投げ売ってです、どんどんお供えをするなり、そのー、色々なさって、見事に出来あがった時には、その人の家の財産までもなくなっておる。そしてそれっきり信心を止められた。こういう例はいくらもあるです。

これはだから教会だけのことじゃないです、自分自身の家のおかげもそうでなからないかんです。ほんとに神様が先に立って下されよるな、と言うそのおかげにです。神様の先走りせんなです、その神様の働きに付いて行くような生き方。言うなら神様の手足になって行くような生き方にならせて頂いてのおかげが成就であるならばですね、言うならば信心の徳が、それに裏付けが伴ったもの、おかげになってくるのですね。

それを例えばもう少し簡単に頂いておられるのが、例えばご普請をするでもね、皆さんがご神意を伺うて、時期を待てと言われ、その場で待っておられる。お許しを頂いたら「はい」。それこそもう今、あたくしが何件か申しましたところなんかは、もうお許しを頂いたからほんとしたんですよ。実際はもう当ても何もなかったんですよ。今の大和さんだって、羽田野さんだって。

羽田野さんところなんかはあのー、息子さんの会社の方で融資をしてくれたんですけども、今年に入ったらピシャッとそれがもう融資が止まってしまったんだそうです。もう絶対今年にはでけておらなかったんです。そういう例えばですね、働きと言うものがね、感じられるおかげでなからなければいかんです、ね。

此の方の道は傘一本で開く事が出けるという傘一本とは、今日あたくしが申しました事を内容に、内容がそのまま傘一本であります。ね、甘木の教会なんかは、その傘が一本立ちして開けたあの甘木の、言わば信心であり、または甘木のお広前建立であったという事であります。だからそれに打ち込んだ人達は皆おかげを頂いた。

合楽の場合でもそうでしょう。こういう大変な、言うなら大きなー、まあこことしてはね、つういっぱいの言うならご造営がでけたですけれども、皆御用頂いた人達が、財産が減ったと言う人はひとーりもいないでしょうが。もう今日は、朝からあたくしはご祈念をさせて頂くたんびんに、もうお勇みの連続でしたね。神様の方でも御霊様の方でも。

例えばあたくしが、ほんとに合楽でおかげを頂いて、貧争病のない世界に信者がおかげを頂いて、これからもっといよいよ心善美の、言わば世界に住まわせて頂くということがです、神様のあたくしは願いとあたくしは思いますと。だから、そこに信者氏子が気付かせて頂いて、そういうおかげを頂きますようにと言うお願いをする時なんかは、もう大変なお勇みでした。

いかにあたくしどもがほんとに神ながらな言うならば貧争病のない世界に住むという事、ね。極楽の世界に済むと言う事が、神様の願いであるかという事が分かるですね。だからそういう言うならおかげを頂くに致しましてもです。そんなら、ならそのがむしゃらにお願いをしてからと言うのではなくて、姿勢を作って頂けというのですよね。その姿勢ということが、ならどういうことかというと、あたしは傘一本だと思うです。

ね、いや、傘一本に繋がる事だと思うのです。皆さんのこれからの、例えばおかげはです。ただ神様にやあやあ言うてでけたおかげではなくて、神様が先に立って下さるようなおかげを頂くために、まず傘一本も頂かせて頂く信心を、一つ身に付けて行かなければならんと思いますね。どうぞ。